みなさんこんにちは〜
今回のテーマはニホンカワウソと日本の文化です。
ニホンカワウソと日本人の関わりについて前章で書きましたが、
その内容をさらにもう一歩深めていきたいと思います。
ニホンカワウソと日本人の関わりは太古まで遡ります。
愛知県にある八王子貝塚や、伊川津貝塚(どちらも縄文時代)ではニホンカワウソの遺存骨が発見されています。
その他、カワウソの遺存骨は比較的色んな遺跡から見つかっています。
貝塚は当時のゴミ捨て場のような場所ですよね。
ということは、縄文人がカワウソの毛皮をとって捨てていたのかな?
カワウソが薬として朝廷に献上され、また、室町時代には塩辛にされるカワウソの資料も残っています。近代になってもカワウソの肝は結核や眼病の薬になるとして人間に捕らえられていました。
致死の病気だった結核にカワウソの肝が効くという噂が広まると、
カワウソの密猟が止まらなくなっていくのは必然でした。
(当時はカワウソ猟の規制はほとんどありませんでしたが)
今でもサイの角が解熱の漢方薬になるとして密猟されていますよね。
サイの角は実際は人間の髪の毛や爪と同じ、ケラチンというタンパク質の成分なので、
科学的には病気に効果がないことが証明されています。
この他にもカワウソは、芸術作品の題材として、様々な有名人によって描かれています。
あの有名な狩野派の中興の祖と言われる探幽の作品
水かきに施された濡れた肌あいや、毛の緻密さに驚かされます。
狩野派400年の歴史の中でも類稀な才能を有した同派随一の絵師であり、江戸狩野派の始祖。
偉大なる祖父永徳が築き上げた戦国武将好みである画面からはみ出さんばかりの絢爛かつ豪壮な桃山様式から、画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした小気味の良い軽妙で詩情性豊かな表現を用いて独自の美の世界を確立。
天下太平の世となった江戸時代に相応しいその美の世界は同時代の美意識に決定的な影響を与えたと同時に、江戸幕府の御用絵師として狩野派一族の地位を不動のものとした。
はい、出ました。こちらは和歌山が誇る偉人、川端龍子の作品です。前回紹介した「獺祭」というカワウソが魚を祭る場面をユーモラスかつ大胆に描いています。カワウソを袈裟を着た僧侶に見立てている点が非常に面白いですね。
しかもカワウソの顔がめっちゃかわいい笑
本名は昇太郎と云い、呉服商の長男として生まれています。幼い頃から絵を描くことが好きで、家族が10歳の時東京に移り住んだのを切っ掛けに画家を志し、白馬会洋画研究所そして太平洋画研究所において洋画を学び始めます。
生活のため新聞社(読売新聞→国民新聞社)の挿絵を描きながら、28歳の時、洋画を学ぶため渡米するのすが、ボストン美術館で観た日本古美術「鎌倉時代中期の絵巻『平治物語絵詞』」にすっかり心を奪われ、翌年帰国すると日本画に転向してしまいます。近代日本画壇にあって、龍子はよく「異端者」「稀有な存在」などと呼ばれていたのですが、そのわけは、この時代の日本画は繊細で巧緻な画風が主力を占めていたのに対して、龍子は展覧会での鑑賞を目的とした『会場主義』あるいは『会場芸術主義』と呼ばれる概念を打ち立て、従来の日本画の常識を打ち破った豪快なあるいは奇抜な発想や着想で文字通りの超大作をものにしてきました
せっかくなので、川端龍子の代表作をいくつか載せておきます。
「慈悲光礼讃(朝・夕)」1918年
「草の実」1931年
「爆弾散華」1945年
「金閣炎上」1950年
"圧巻"の一言。著者の語彙力では表現できません笑
以上、半分くらい川端龍子の紹介になってしまいましたが笑
ニホンカワウソと日本の文化の密接なつながりを感じていただけましたでしょうか?